見聞伝 > 戸塚洋二の科学入門 > その他の記事 5
神の愛はダーウィンとガリレオに及ぶのか、その2

 前の記事の続きです。

 1632年、ガリレオ・ガリレイは「天文対話」を出版しました。前にも書きましたが、新進の哲学者いやむしろ科学者と言っていい人物が対話形式の中で「地動説」を主張し、天動説をとる伝統的な哲学者をこっぴどくやっつけるという筋立てです。

 ガリレオは地動説によってダーウィンとは比較にならない苦悩を負うことになりました。
 
 ヨーロッパの歴史を見ると、1500年代に宗教改革の嵐が吹き始め、そして強く吹き募りました。1600年代に入っても宗教改革の余波は続き、1618年から1648年まで続いた30年戦争でヨーロッパは荒廃の極みに達しました。主戦場となったドイツの人口は1600万人ら600万人へ3分の1に減り、村落の6分の5は破壊されたといいます。
 
 余談ですが、この1年くらい、1500〜1600年代の大陸ヨーロッパの歴史を繰り返し読みました。
 理由はイラク戦争を何とか理解できないか、と思ったからです。イラクではイスラム教の2宗派が血で血を洗う凄惨な戦いをしています。これはまさに宗教戦争ではないのか。それでは、400年前に起きたヨーロッパでの宗教改革ではイラクのような悲惨なことは起こらなかったのだろうか、と思ったからです。
 上に見たように、1600年代のヨーロッパは現在のイラクが平和でのどかに見えるほどの惨禍の中にありました。何の教訓を得たことにもなりませんが、イラクでも人々があきらめるまで殺し合いは続くのかな、と暗い気持ちになりました。

 ところがこの時代、ちょっと南によったイタリアではまだまだルネッサンスの興奮が収まっていないときだったのです。しかし、バチカンは伝統的キリスト教を守ろうと大変神経質になっていた時代です。
 ガリレオ・ガリレイが生きた時代はこのような激動の時代でした。

 天文対話を読むと、ガリレオの考え方は現在の科学者とちっとも変わっていません。観測事実を重視し、幾何学など数学の知識を駆使して観測事実を解釈しようとしています。「解釈」と書きましたが、観測事実を何とか体系的に理解できないか、つまりうまい理論が組み立てられないか一生懸命考えることです。

 ガリレオの時代に最新科学機器として望遠鏡が登場しました。この威力は絶大で、木星の衛星、彗星、太陽の黒点、金星の喰、月面のでこぼこなど、次々と新しい観測事実が加わりました。
 これらの観測事実から必然的に出てきたのが、コペルニクスの提案した新説、つまり、大地の周りを太陽や惑星、星が動いているのではなく、太陽を中心として地球や惑星が動いている、という解釈でした。地動説です。
 
 しかし、世は激動の時代。ローマ教会が黙っているわけはありません。1633年の宗教裁判でガリレオは有罪となり、地動説の放棄を命令され、火あぶりの刑は免れたものの自宅軟禁の身となりました。1642年盲目となったガリレオは幽閉先の地アルチェトリで死にました。
 その間、数年をかけて完成させたのが最後の本「新科学対話(Two New Sciences)」です。この本が近代科学の夜明けを告げる本だったのです。

 お恥ずかしいですが私はまだこの本を読んでいませんでしたので、先日Amazon.comに注文しました。古本ですが4207円也。

 さらに蛇足ですが、新科学対話を出版したのはオランダのエルセヴィエ(Elsevier)社でした。これにはちょっと驚きました。というのは、私が働いてきたグループは何10編もの論文をエルセヴィエのジャーナルに発表したからです。また、私は最近までジャーナルのエディターも勤めました。知人のエルセヴィエ国際出版部長からはまだ時々メールが来ます。

 ガリレオが死んだ年の1642年、イギリスでアイザック・ニュートンが生まれています。(300年後の1942年、私が生まれました。関係ありませんが。)

 その後の歴史には少し心休まるものがあります。ウィキペディアによれば、

 1737年、ガリレオの遺体はサンタ・クローチェ教会の豪華な墓室に再埋葬された。
 1741年、ガリレオは公式に名誉回復がなされた。
        ガリレオのすべての著作物の出版が許可された。
 1758年、地動説の禁止が解かれた。
 1992年、法王ヨハネ・パウロ二世は、ガリレオの裁判に対して遺憾の意を表した。

 「天文対話」が世に出てから約100年後の1700年代始め、太陽の周りを地球が動いていることを疑う人はもういなくなり、地動説を教会も認めざるを得なくなったことがわかります。(むろん狂信的な人を除いて)。

 理由は明らかです。膨大な観測事実を説明できるのは唯一地動説だけで、他の解釈のはいる予知がなくなったのです。

 この点が進化論とちょっと違う点です。ダーウィンの「種の起源」が出版されたのが1859年。既に150年たっています。生物学やライフサイエンスの進歩はガリレオの天文学の進歩にくらべてちょっと遅れているようです。

 生物学・ライフサイエンスに関わる研究者の一層の奮起が必要です。天文学と比べてそれほど難しい学問でもないはずですから。

 進化論のダーウィンは、死後すぐに、イギリスのもっとも偉大な科学者の一人としてウェストミンスター寺院に埋葬されました。近くには偉大な物理学者アイザック・ニュートンも埋葬されています。

← 前の記事へ → 次の記事へ
→ 表紙へ戻る
Copyright (C) 2008 戸塚洋二, 東京大学 立花隆ゼミナール All Rights Reserved.  表示が崩れますか?