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科学入門シリーズ2
アインシュタインの「E=mc2

第4回  ベーテ博士の思い出


 前回は太陽エネルギーの起源について、コーネル大学教授だったハンス・ベーテ博士の先駆的な業績があって初めて太陽のエネルギー源が解明されたことをお話ししました。
 
 今日は、ベーテ博士のことをもうちょっと話したいと思います。

 ハンス・ベーテは1906年に現在のストラスブール(旧ドイツ領)に生まれ、1933年ナチスの迫害をのがれてドイツを去り、1935年アメリカに移住しました。原子核物理学で数々の業績を上げ始めたベーテは、その後第2次大戦時に、マンハッタン計画に参加し、理論部長として重要な貢献をしました(この間の経緯は、J.ウィルソン編「原爆を作った科学者たち」、岩波書店、に詳しく書かれています)。もちろん日本にとっては悪夢でしたが。

 その後コーネル大学に戻り、1967年にノーベル物理学賞を受賞しています。
 2005年に99歳で亡くなるまで、現役の研究者でした。90歳を過ぎても論文を発表していました。21世紀を代表する偉大な科学者の一人として後世にその業績は残ることは確かです。

 ウィキペディアにベーテ博士が紹介されています。参考にしてください。ベーテ博士は根っからの原子核物理屋ですから、最後まで原子力の積極的平和利用を訴えていた、という記事に、私は大いに感銘を受けました。核廃棄物処理に彼がどのような意見を持っていたのか、ぜひ聞きたかったと思います。きっとすごいアイデアを持っていたに違いありません。また、大戦後は、アメリカの国防関係で重要なアドバイザーだったはずです。

 何年も前になりますが、私の関与していた実験結果が面白かったし、ベーテ博士の理論研究とも関係があったので、博士の理論と実験結果の関連についてちょっとした手紙を書きました。
 すぐに返事が来て、ベーテ・バコール・お前さんの3人の連名で論文を書こうや、と提案してきました。こちらはしがない実験屋、伝説的な理論家と論文を書くのは、どうせ僕の貢献などゼロだと皆にすぐわかるだろうし、そもそも実験結果はまだ論文にしていなかったので、ベーテ博士に、しがない実験屋ですから共著論文は御免こうむります、と丁重に断りました。
 どうやら、彼の論文は既にほとんど出来上がっていたようで、ジョーン・バコールとのちょっとのやり取りの後(彼らのメールのやり取りは私のところにccされていた)、出版されました。この論文は、ベーテ・バコール論文として結構有名になりました。
 やっぱり名前を入れておけばよかったかな、と後悔しましたが後の祭りです。

 その後、知り合いから頼まれて、コーネル大学物理学科のセミナーで話をする機会がありました。長机の両側に教授どもが並んでいて、私が机の端でOHPを使って講演しました。
 その前にお茶の会があって、驚いたことに90歳前後だったベーテ教授がにこにこしているではありませんか。紹介されて挨拶をしましたが、すごいドイツなまりの英語で半分くらいしかわかりません(記憶では確か、“I am curious about your talk.”というお世辞も入っていました)。ドイツ語で話してくれればいいのに、などと失礼なことを心の中で思いました。
 
 長机に並んだ教授どもは砂利みたいなものだと考えればあまり気になりませんが、私が立っているすぐ左横にベーテ教授が座ってしまい、どうも居心地の悪い話しぶりになりました。それでも1時間以上に及んだ話も無事に終わり、質問になりました。

 知人がベーテ教授に向かって「ハンス、彼の観測結果をどう思う」と余計な質問をしました。にやりと笑ったベーテ教授は「彼はわしの理論をつぶしおった。“He ruled out my theory.”」とだけ言いました。

 私は、ベーテ教授が直ちに我々の観測結果を認めてくれたことに内心大いに喜んだわけですが、この際ですから、当然だというような顔をしていました。

 「20世紀科学界巨人の一人」、ベーテ教授との短い遭遇を私は大変誇りに思っています。彼から来た手紙も捨ててありませんので、どこかに眠っているはずです。

 これでE=mc2の話を終わりにしようと思ったのですが、もう少し続けます。
興に乗ると止まらなくなります。 (続く)
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